「知覚正面」という用語に関連して、ヌーソロジーで言及される大森荘蔵の著作『新視覚新論』を読んだ時、知覚の哲学者のバークリーの「純粋視覚」というのが出てきた。
これは、純粋知覚=純粋視覚としての奥行きが、触覚を基盤とする感覚的協働=共通感覚の知覚の場を“切断する”、の状況に近い気がする。
大森荘蔵は文章の中で、そのようなこと(=触覚と視覚との感覚的な協働の分離)はあり得ない、抽象的な思弁であり、たんなる想像にとどまる、と書き添えていたかと記憶している。
ふだん、自分は、ケイラク的な感覚、つまり、視覚と触覚の感覚的な協働、といった現場にいると思うが、
そうした立場から言うと、“精神の顕在化≒純粋視覚の独立”というのは、“ひじょうに特殊な何か”という感じをもっている。
ただ、以前、一瞬それをのぞき見たような“気がした”ことがあり、その時に加工した動画がコレ。
外部のない、「まなざし」により支配されている閉じた世界、という感じがした。
「鏡」ですね。
シャーマニズムを意味する「巫」の字体とも、似ている。
超越的な世界領域であり、人間の生活にはあまり関係ないのではないでしょうか?(笑)
「巫」は、「工+両手」と説明がある。しかし、工を挟んで2人の人が鏡のように見合っているようにも見え、また、工の字体が縦横90度に交差しているかたちでもある。手ではなく、まなざしかもしれない。あるいは、端的に、“空間”か。『字通/白川静』より