-引用-
法を打ち立てるためには殺さねばならない。これが父の思考です。戦争なんてものは所詮、すべてがこうした狂った父同士の啀み合いだよ。「はじめにロゴスありき」は必ず「はじめに暴力(ゲバルト)ありき」を伴うんだよ。それが人間という形態。
-引用-
日本社会における司法の裁量権の特殊性、といったものが言われるらしい。
法律に詳しくないが、
検察に告発されると、99パーセントの確率で有罪になる。
これは、まともに司法が機能しておらず、つまるところ、それとは違う場所で、その裁量権が発揮されているのだという。
司法、裁判などという、単純な場所で、人を裁いてはならない、という配慮によるものだそうです。本来は。
つまり、日本人が、アメリカのような訴訟社会に、なって行かない理由。
そういうかたちで、近代の法制度というものを日本人は“棚上げ”し、実のところ、それとはまったく違う場所で何かを取りはからっていると。
ところが、“人間ゲシュタルト”の煮詰まりの関係で、
なにもかもどんどん“対象化”していく意識の傾向が強まっている。
私は、私は、私は。
コト、あるいは場所の中にたたずむ日本人というよりは、どんどんスマホの中に入っていっちゃってますよね。
そうすると、なにかをどうのしようとする、対象的な、操作的な、あるいは権力的な力が、
99%の確率で、発揮されるようになる。
・・・これはほんとうに、“恐ろしい”社会だといえる。
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じゃあ、それをことさらに対象化せずに、対象をめぐりどうのこうのするのではなく、他に、どのようなやり方で、従来の日本人は対処していたのか。
それが「中心感覚」でしょうね。
ヌーソロジー的には、6と4の、連動でしょうか。つまり、土星と金星。
バランスと、中心感覚は、別物でしょう。
中心感覚は、ある種、絶対的なものです。
計量されたり、比較されるものではない。
“マナカリアリティー”ではないですが、おそらく日本人は、その“中心”をもっている。
しかし、そのことが、いざ“対象”的な領域で発揮された時に、恐るべき全体主義として、結果してしまう。
おそるべきスピードで、確信犯的に、“破滅”していくのですね(笑)
バランスとは、なにかをどうしてこうしてと、比較~調整するものですが、
真ん中は真ん中で、ひとつだといえる。
・・・これが何かといえば、ヌース用語でいう「重心」ではないか。
「黄金比」と関係があると言われていて、それはある種の生命感覚だとも言われる。
人間にとり重心こそが“神”と呼ぶべき何かにふさわしい実体である、という。
確かに、日本人は、そういう思想をもってきたのではないかと思います。
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「日本人とは転換位置」とのオコツトの言葉がありますが、
変換に対するところの、転換なわけです。
後手の作用ですね。
偶数系の、中和の作用です。
これは、変換作用が進んで行く時に、それを“裏支え”する働きの位置ではないでしょうか。
それが、日本人が、重心としてのゼロ=真ん中を“知っている”、ということではないか。
まこと=真コトってやつですね。
「次元の交替化」という宇宙の輪廻の働きの中で、そのようなテコの支点のような位置として、「日本人」を置いている、
というのが、宇宙の計らいであるとの内容ではないか。
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つまるところ、父性よりも、母性に先手がある日本社会の特徴。
しかし今、その母性の働きが、そのものではなくて、なにかに向かい、つねに“対象的”に発揮されていることで、
逆に、ひじょうに息苦しい管理社会になっているのではないか。
よかれと思って為されるはからいが、ことごとく、裏目に出ていく社会。
それは、私たちの中の母性、あるいは、母性を敬い感謝する気持ちが、減退しているということなのではないか。
自分はほんとうに、人が変わったように、日々刻々、感謝するようになってます(笑)
これが“顕在化”ってやつなのでしょうかね。
参考ページ:Twitter http://twilog.org/kohsen/asc